2013年8月4日日曜日

数理科学 1987 年 5 月号 編集後記:
 前号「量子力学と先端技術」の最終の校正刷をみて,印刷所の校正室を出ようとした.印刷会社の課長の N さんが椅子から立ちあがってこう言った.
 「とうとうこれが最後の活版印刷になりましたね」.不意の言葉だったが,胸にこたえるものを感じる.ながいあいだ,金属で作られた文字である活字の本を読み,それを使って出版し,おかげで食べてきた活版印刷が,前号で終わった.
 感傷も多少あるが.思い出せばキリがない.印刷所の事務室のまんなかに,大きな机を据えつけ,活字母型を虫メガネでながめ,いかに美しい書体に改良してゆくか工夫をこらしていた印刷所の親父さん.また兜のような新聞紙の折り紙で作った帽子をかぶって,老眼鏡を鼻の先に下げて,並んで活字箱を突ついていた,まるで鶏舎のニワトリのような文撰工,そして植字工.だいたいが声が大きく,気性が激しく,真黒に汚れていたが,ひと風呂浴びるとイナセな男衆たちに一変した.休日にたまたま急ぎの校下があって着流しのまま角帯を巻いて印刷所に立ち寄ったとき,手を叩いて喜んでくれ,正しい角帯の締め方を教えてくれたのは,築地界隈の工場の労働者であった.はにかみやで,物識りで,理論家ぞろいの彼ら.ほんとうは,わたしは,工場の現場の奥まで立ち入るのが怖かった.印刷と出版のノウハウがそこにあり,わたしたち若かった編集者のそれは,頭と口先のものだったのがわかったからだ.わたしたちは印刷をそこで教育された.そして出版とは,印刷そのものであった.
 このような職場から作り出された出版物であったが,いま出版・印刷の企業合理化によって,活版が消え去ろうとしている.なくなることはないであろうが,激減しつつある.このことは,かつての感傷風景が消えるだけではすまないものがあるかもしれぬ.するどい,カミソリが削いだような楷書スタイルを持った金属の活字が,まさに刻印し,強制してきた文字の意味内容も,抵抗感も薄らいでゆく.あるいは古い慣れはやがて新しい慣れに変わるという単純なことかもしれない.
 いずれにしても変化し,新しい印刷に移ってゆこうとするとき,かつての懐かしい仲間たちにお礼を言わなければならない.ありがとう! Old Black Joe.

0 件のコメント:

コメントを投稿